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一首評(No.7)
  口語もて恋を詠えばさみどりの共同墓地を切り売るいたみ
                        (野口あや子 『くびすじの欠片』)


相聞歌を中心としたこの歌集の中で、詠うという行為そのものに言及しているめずらしい一首である。野口の歌は「くるしい」「さみしい」などの感情をためらわずにストレートに表現することが多い。その点においてもこの歌の「痛み」にかかる暗喩の特殊性と的確さはとりわけ目を引く。


野口の歌で「口語」といえばこの歌を思い出す人も多いだろう。
  
  使い慣れているから自由というわけもなくてふたりの口語セックス
                                        (同)
「恋を詠」うということは、恋人と二人で作り上げてきた関係性や思い出を、「口語」という「使い慣れた」手段を用いて少しずつ切り取って加工し、見ず知らずの他人に供給しているということである。「口語」を用いて作られた歌は、実際の会話とかなり近しい表現になるため、文語を使うよりはるかに加工が少なく見え、ともすればノンフィクションだと考えられる可能性が高くなる。そうして作られた歌が読み手が無意識に実際のできごとであると受け取られることで、作者は少なからず傷つき、作者の恋の相手もまた傷つくことがあるのだろう。それを承知の上で「恋を詠」っていることに少なからずいだく後ろめたさを「いたみ」としてこの歌は的確に表している。


「墓地」というキーワードに関連して、同歌集にはこのような歌がある。
  
  人が死に焼いて埋めてそのうえに石を置きたるおそろしきかな 
                                        (同)
人が死んで火葬ののちに墓に入るというのはほぼ当たり前の手順であるが、確かにどこか奇妙なものであることに気づかせる一首である。この歌からも、作者が死に関した現代の人々の姿勢に、何らかの違和感を抱いていることが読みとれる。さらに、「墓地」を「売る」という行為は、人の死を利用した商売である。「墓地」を「切り売る」と言えばまるで反物か何かのように、死を軽く扱っているように思え、ともすれば不謹慎であると言われかねないことだ。そのうえ「さみどり」という人工的な美しさを演出してまで、まだ死んでもいない相手に「墓地」を買わせようとしている。死んでしまえば「墓地」の美しさなど関係ないという、当たり前のことは口に出さずに。そうやって「共同墓地を切り売る」という不自然な行為をあたかも自然のように行っていることのうしろめたさが、前述した「口語」で「恋を詠」うことの後ろめたさとよく似ているのだ。

しかし、墓地の売人は墓地を売らなければ生計が成り立たない。うしろめたくとも、生活をするためにはそれに折り合いをつけて売り続けていくしかないのだ。同じように、「恋を詠」うことが「いたみ」であるといいつつも野口がそれをやめないのは、「いたみ」に勝る力が何らかの強い力が彼女にはたらきかけているからなのだと思われてならない。そんな姿勢が現れている歌を、最後にもう一首引用したい。
  
  かかげればもしくは人を傷つけるかもしれぬ花束を抱いて   
                                       (同)


(文責:坪井晴子)
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