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一首評(No.12)
みんなみんな想像以上に真面目だしピュアだけど台風の日の暗渠
                                    五島諭『緑の祠』


 ある瞬間、人の底意に気づいてしまうことや、物事の裏側にひそむ事実を悟ってしまうことが、どんな人にでもある。日常生活全般の普遍的な真理という言い方は大げさかもしれないけれど、誰もがこういう場合にはこういうことを考えていて、きっとこういう風に行動するに違いない。そういった気づきは、生活の何気ない場面で心に降りてくるものだ。
 掲出歌初句の「みんなみんな」というリフレインは、ふいに口をついて出てしまったかのような、あるいはふと心に浮かんだかのような印象を、歌全体に与える。作中主体は、突如脳裏をよぎった確信によって、それまでの考えを更新させられる。
 自分が思っていたよりも、実際はもっと真面目でもっと純粋な人々。どのようなきっかけで、作中主体の「想像力」がほころび、広がったのか。歌のなかには書かれていない。ただ、身近な人のポジティブな側面を垣間見て、自身の人間観に、驟雨の終わりのような一筋の日が射しこんだのは確かだ。
 しかし、四句目の「だけど」という逆接が、その明るい気づきに留保を与える。
 台風の日の暗渠。
 四句目までの、人間の性質への具体的な言及から離れて、ある光景が急に現れる。それは、濁流によって轟々と音をたて、強く雨が降りそそぐ川面を厳然と吸いこむ、ひとつの暗闇だ。
「みんな」に対してある価値観を抱くと、まるで影が射すかのように、暗闇が脳裏に浮かぶ。「真面目」「ピュア」などの特徴では言い表せない凝縮されたイメージ、暗渠という暗がりである。押し広げられた「想像力」のさらに外側に、作中主体は言語化できない何かを感じ取っている。
「想像以上に」という言及は、作中主体が自身の「想像力」を把握していることの証拠だ。もしかすると、「みんな」の暗く漠然とした部分についても言葉として捉えようとしていて、その内実に薄々気づいているのかもしれない。「だけど」という逆接に「だけど(やっぱり)」という嘆息が含まれているようにも思えてくる。
 他人の内実への想像は、自分自身への想像でもある。仮に自分自身が空虚であれば、自然と他人の空虚さも増す。
 嵐によって激しくうなっている暗渠の入口。その内部、平面的な暗闇のさらに奥。暗渠自体の空洞の存在を、「みんな」という個別化できない他者に対して感じたのだと、考えることもできるのだ。

目をこらす一瞬ぼくの奥行きが半分ほどになる夏の暮れ

 同歌集収録のこの歌でも、人間を(掲出歌とは違い、抽象的ではあるものの)奥行きという一種の空洞として捉えている。ところが二つの歌を比べると、自身の空洞については奥行きを把握できているが、他人の空洞に対しては、入口の奥に広がる暗がりに「想像力」を働かせるのみである。
 そのなかに何があるのか分からない。どんなものを引き寄せてもいい。
 あらゆる可能性が、暗がりに含まれている。


参考
五島諭『緑の祠』(書肆侃侃房、2013年)
大塚誠也「さりげない「作者」の存在 ―五島諭論」(『早稲田短歌』三十九号、2010年)
服部真里子「「どの歌が好き?」と訊かれたら」(短歌同人誌『一角』、2013年)
平岡直子「シュノーケルの記憶」(短歌同人誌『一角』、2013年)


(文責:永井亘)


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