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一首評(No.11)
 生きてゆくことより生きてゐることは怖れに似たりジャスミン茶飲む(栗木京子)


 「生きてゆくこと」、それはいま・ここから未来へと向かって自身を運んでゆくということだ。先行き不安、なんていうことばをよく耳にする。それは先「行き」すなわちこの先の未来へと「(生きて)ゆく」ことに対して人が抱いてしまう不安。いま・ここの世界からは、先行きという名前だけが付けられた未来への道行きをとらえることはまず無理で、たとえ見えたとしてもそれはぼんやりとしたものにすぎない。未来への展望、なんて言うこともあるけれども、やはりそこに確かなものなど何にひとつない。先の見えない道をゆかなければならない。そのことから不安が、おそれが生まれてくるものだ。
 対して、「生きてゐること」、それは自身がまさにいま・ここに存在して「ゐる」ということ。主体は、そちらのほうがむしろ怖れに似るという。はじめてこの一首を読んだとき、ひどく違和感をおぼえた。ふたつの「こと」の関係は逆さまなのではないか、「生きてゐること」よりも「生きてゆくこと」のほうが余程おそるべきことなのではないか、と。この主体は、どうしていま・ここに存在していることを怖れるのだろうか。いま・ここにいる自身の存在は、主体にとってもっともはっきりしているものではないか。
 しばらく考えて思い至った。いま・ここに自身が存在していることに対する怖れ。それはもしや、いま・ここという世界がもっともはっきりしているものだからこそ生まれてくる怖れなのかもしれない。主体にはいま・ここという世界ははっきりと見えている。しかしそこには自身のちからではどうすることもできないものごとが満ちている。そんないま・ここという世界にどうしようもなく存在している自身。その状態が主体にとっておそるべきことだということなのではないか。
 そして最後に主体はジャスミン茶を飲む。中国から渡ってきたこのお茶は、茉莉花の香りが特徴的で、覚醒作用やリラックス作用といった効能をもたらすという。そして中華料理などの脂分のおおい食事の後に飲むと、口の中をさっぱりとさせてくれる、そういうお茶だ。自身ではどうすることもできないいま・ここに「生きてゐること」という怖れ。ジャスミン茶によってそれを飲み下してしまう、というわけではないけれど、お茶を口にして、ひと息つく。そして、席をあとにした主体はふたたび、いま・ここから未来へと「生きてゆく」のだろう。
 いま・ここに「生きてゐること」は、自身ではどうすることもできない。しかし、いま・ここから「生きてゆくこと」はきっとそうではない。先の見えない不確かな未来は、不確かであるがゆえに、自身の働きかけによって少しずつでも変化させていくことができる可能性をもっている。だからこそ、「生きてゆくこと」には、たしかに希望もある。


参考:現代短歌文庫38『栗木京子歌集』(砂子屋書房・二〇〇一年)

文責:山階 基
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