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6月1日歌会のおしらせ
こんにちは、2年の土井です。
6月最初の歌会のおしらせです。

日時:6月1日(金) 18:30~
場所:学生会館E742
詠草:自由題一首

詠草は当日18時までに
nutty_dotty_crazy○yahoo.co.jp(○を@にしてください)
までお送りください。
詠草のみの参加はご遠慮ください。

お気軽にお越しください。
お待ちしております。
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5月25日の歌会のお知らせ
【5月25日の歌会】

司会:3年綾門
時間:18時30分から
場所:学生会館E742

詠草は当日18時までに以下のアドレスまでお送りください。
saturation1991◎hotmail.co.jp(◎→@)

詠草のみの参加はご遠慮ください。
詠草出さずに参加は歓迎です。

18時くらいから部室E714にひとがあつまりはじめるので、
学生会館にはやめに到着した、というひとは直接会場に向かわず、
部室にあそびにくるのもいいかもです。
一首評(No.11)
 生きてゆくことより生きてゐることは怖れに似たりジャスミン茶飲む(栗木京子)


 「生きてゆくこと」、それはいま・ここから未来へと向かって自身を運んでゆくということだ。先行き不安、なんていうことばをよく耳にする。それは先「行き」すなわちこの先の未来へと「(生きて)ゆく」ことに対して人が抱いてしまう不安。いま・ここの世界からは、先行きという名前だけが付けられた未来への道行きをとらえることはまず無理で、たとえ見えたとしてもそれはぼんやりとしたものにすぎない。未来への展望、なんて言うこともあるけれども、やはりそこに確かなものなど何にひとつない。先の見えない道をゆかなければならない。そのことから不安が、おそれが生まれてくるものだ。
 対して、「生きてゐること」、それは自身がまさにいま・ここに存在して「ゐる」ということ。主体は、そちらのほうがむしろ怖れに似るという。はじめてこの一首を読んだとき、ひどく違和感をおぼえた。ふたつの「こと」の関係は逆さまなのではないか、「生きてゐること」よりも「生きてゆくこと」のほうが余程おそるべきことなのではないか、と。この主体は、どうしていま・ここに存在していることを怖れるのだろうか。いま・ここにいる自身の存在は、主体にとってもっともはっきりしているものではないか。
 しばらく考えて思い至った。いま・ここに自身が存在していることに対する怖れ。それはもしや、いま・ここという世界がもっともはっきりしているものだからこそ生まれてくる怖れなのかもしれない。主体にはいま・ここという世界ははっきりと見えている。しかしそこには自身のちからではどうすることもできないものごとが満ちている。そんないま・ここという世界にどうしようもなく存在している自身。その状態が主体にとっておそるべきことだということなのではないか。
 そして最後に主体はジャスミン茶を飲む。中国から渡ってきたこのお茶は、茉莉花の香りが特徴的で、覚醒作用やリラックス作用といった効能をもたらすという。そして中華料理などの脂分のおおい食事の後に飲むと、口の中をさっぱりとさせてくれる、そういうお茶だ。自身ではどうすることもできないいま・ここに「生きてゐること」という怖れ。ジャスミン茶によってそれを飲み下してしまう、というわけではないけれど、お茶を口にして、ひと息つく。そして、席をあとにした主体はふたたび、いま・ここから未来へと「生きてゆく」のだろう。
 いま・ここに「生きてゐること」は、自身ではどうすることもできない。しかし、いま・ここから「生きてゆくこと」はきっとそうではない。先の見えない不確かな未来は、不確かであるがゆえに、自身の働きかけによって少しずつでも変化させていくことができる可能性をもっている。だからこそ、「生きてゆくこと」には、たしかに希望もある。


参考:現代短歌文庫38『栗木京子歌集』(砂子屋書房・二〇〇一年)

文責:山階 基
【5月11日の歌会】

司会:徳永(文2))
時間:18時30分から
場所:学生会館E742

詠草は当日18時までに以下のアドレスまでお送りください。
walpurgisnacht◎suou.waseda.jp(◎→@)

詠草のみの参加はご遠慮ください。
詠草出さずに参加は歓迎です。

18時くらいから部室E714にぼちぼち人があつまるので、
はやく学生会館についちゃったという人は直接会場に向かわず、
部室にどーん☆
一首評(No.10)
 わが体(からだ)なくなるときにこの眼鏡はどこに置かれるのだろう (高瀬一誌)

 
 実は、人間の肉体よりも眼鏡のほうが耐久性が高い。生命機能を停止させた人間の肉体はすなわち死体となり、自然による腐食を免れることはできない。そして、日本人に限っていえば、ほとんどの死体は火葬されて消滅する。そのとき「わが体」は、この世界から「なくなる」。だが、私の眼鏡は私の肉体ではないから、私の死と同時に腐食を始めることはない。つまり、「わが体」は眼鏡を残して、「なくなる」のだ。
 残される「この眼鏡」が問題である。私は、私がいずれ死ぬことを、さらに「わが体」が最終的に「なくなる」ことを知っている。二句目までの定型には諦観がある。しかし、「この眼鏡」のこととなると、私は途端に不安になる。第三句をすっとばして九音八音と詠みきってしまう韻律は冷静とはいえまい。私は私であるうちに死ぬ。私の肉体は慣例的に焼かれて消えるだろう。では「この眼鏡」はどうなるのかという思案に至り、私はこれに関われないことに気づいて不安になる。
 この不安が生きる私を苛む。死そのものの不安ではなく、自分の関わりを断たれた世界への不安である。だから、人は死ぬ前に遺言を残すのではないか。遺言は、死んでなお私が世界に関われる唯一の手段だ。私のいない世界に、私の遺志が関わり始める。しかし、遺言は生きた人間を媒介せずには機能しない。私の遺志を行為へと移してくれる者は、私が生きているうちに選ばれなければならない。しかし遺言を託せる者は、私にとって可能性として見出されるに過ぎない。当然だが、遺言が正しく機能するかどうかは、そのとき死んでいる私には見ることも聞くことも叶わないからだ。だから、遺言とは賭けである。遺言を託す者へ、私は全面的信頼を与える。そして、挑むに足るほど、私は私が残した世界に、私にあたうかぎりの関わりを持ちたいという欲望とは強いものだ。
 この一首には遺言の要素が含まれている。なぜなら、「この眼鏡」は「置かれる」からだ。つまり私は、私という所有者を失った「この眼鏡」を、あるべき場所に落ち着かせてくれる誰かに、賭けている。「この眼鏡」を置く動作主は、まさに動作するまで匿名なのだが、私はまずもって〈眼鏡を置く者〉を選んだのだ。
 この一首は「眼鏡」でなければならない。眼鏡は、その所有者が死ぬとき、同時に世界で最も正しいその使用者を失うからである。また、眼鏡が資産的価値を有することはまずないし、あるとしても極めて例外的だろう。ならば、交換価値も使用価値もない遺物を、わざわざどこかに置こうとする者の意図とは何か。それは、死んだ者を偲ぶためだ。だから、〈眼鏡を置く者〉とは同時に〈私を偲ぶ者〉である。〈眼鏡を置く者〉を見出した私に、〈私を偲ぶ者〉が見出される。〈私を偲ぶ者〉は、〈眼鏡を置く者〉になったときに、私の信頼を受け取る。私は彼に賭けている。私より少しでも長生きしてくれて、私の遺志に気付いてくれることを切望して。
 私はきっと、悔いを残し、仕事を残し、大切な人を残して死ぬのだが、私が残す眼鏡を、どこかに確かに置いてくれる者がいるとするならば、生きる私の不安はわずかなりとも軽減されるだろう。私を偲んでくれるその人は、眼鏡を「どこに」置いてくれるのだろうか。他ならぬその人なら、正しい置き場所を知っているはずだ。


参考、『高瀬一誌全歌集』(短歌人会、2005年)

文責・中川治輝
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