早稲田短歌会の公式HPです。
一首評(No.8)
司祭館の靜寂を破る他者ならず司祭の立つる堅き靴音 (葛原妙子『朱靈』)

 静かである、という状態は短歌に詠まれることが多いように思う。
 静かという要素を歌に持ち込むメリットを考えると、日常詠においては、連綿と続く日常から歌われる風景を浮かせ、新鮮な印象を与えること、またどんな題材を扱うにしても、静かと形容される要素に対して、読者の集中力が引き付けられることといえるだろう。

 しかし、静けさそのものを主題とした短歌はあまり見かけない。ここで引いた歌は、そういう点では珍しい歌だと思う。
 この歌では、司祭館の静けさを破っているのは司祭の靴音のみである、ということを指摘することで、ミサが行われている司祭館の、圧迫感のある沈黙が改めて読み手に迫ってくる。
 静寂それ自体を詠むとなると、印象が漠然として、拡散してしまいやすいように思うが、この歌では、堅い靴音と、それを際立たせる静寂を対比させることで、光景が鮮やかに浮かび上がってくるのである。

 また、はじめに「静寂」を示してからそれを破るかもしれない「他者」の存在に言及して、ミサが行われていることを読み手に察しさせることにも成功していると思う。もしミサという表現を使っていたならば、漢字を多用することでこの歌にもたらされている重苦しさ、堅苦しさが損なわれていただろう。
 「他者」の存在が示されることで、「静寂」がその「他者」すべての沈黙によって成り立っているということも暗に示される。その沈黙が、「他者」それぞれの信仰に基づいていることで、読み手にはそれが破ってはならないものであるゆえの重苦しさとともに、敬虔な祈りの空気が伝わってくるのである。

 さらに、結句で「靴音」に言及するまでは、具体的な風景描写が見られないことも効果を上げている。
 靴音を「堅い」と形容することで、司祭の靴と床の堅さを同時に想起させ、その質感だけを余韻として感じさせるのである。それまではどこか抽象的で想像しがたかった「静寂」が、鳴らされる靴音によって輪郭を持って浮かび上がる。
 「堅き靴音」という結句は、音の面からみても優秀である。四句目まではサ行が6音も使用されており、流れるように読ませるのに、四句目後半の「立つる」を導入として、結句ではカ行が3音とタ行が2音使用されており、硬質で、かつ特徴的な印象を与えることに成功している。
 また、視覚で想像できる具体的な情報が少なく、たとえば色彩などがほとんどない中で、最後に聴覚に訴えかけてくる表現が体言止めで使われているのも巧妙だ。

 一見、葛原妙子の歌としては地味な印象を受ける一首だが、こうして考えていくと、様々な技巧の凝らされた歌であることに気づかされる。
 また、彼女の歌には、静けさを連想させる言葉がなくとも、対象をクローズアップして詠むことによって雑音の存在する余地を排除し、充分に静けさと緊張感を伝えてくるものが多い。前評者の坪井さんにならって、最後にもう一首引いてみようと思う。

受洗のみどりご白しあふ臥に抱(いだ)かれて光る水を享けたり (同)

(文責・藤森佳鈴)
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月間予定:2009年12月
 [12月]
4日(金)1830~ 歌会(梶原)
11日(金)1830~ 歌会(藤本)
18日(金)1830~ 杉原一司勉強会(井上)
23日(水・祝)忘年歌会(吉田や)

師走ということで通常よりやや少なめです。
サテライト歌会の開催も計画中です。

(吉田恭)
一首評(No.7)
  口語もて恋を詠えばさみどりの共同墓地を切り売るいたみ
                        (野口あや子 『くびすじの欠片』)


相聞歌を中心としたこの歌集の中で、詠うという行為そのものに言及しているめずらしい一首である。野口の歌は「くるしい」「さみしい」などの感情をためらわずにストレートに表現することが多い。その点においてもこの歌の「痛み」にかかる暗喩の特殊性と的確さはとりわけ目を引く。


野口の歌で「口語」といえばこの歌を思い出す人も多いだろう。
  
  使い慣れているから自由というわけもなくてふたりの口語セックス
                                        (同)
「恋を詠」うということは、恋人と二人で作り上げてきた関係性や思い出を、「口語」という「使い慣れた」手段を用いて少しずつ切り取って加工し、見ず知らずの他人に供給しているということである。「口語」を用いて作られた歌は、実際の会話とかなり近しい表現になるため、文語を使うよりはるかに加工が少なく見え、ともすればノンフィクションだと考えられる可能性が高くなる。そうして作られた歌が読み手が無意識に実際のできごとであると受け取られることで、作者は少なからず傷つき、作者の恋の相手もまた傷つくことがあるのだろう。それを承知の上で「恋を詠」っていることに少なからずいだく後ろめたさを「いたみ」としてこの歌は的確に表している。


「墓地」というキーワードに関連して、同歌集にはこのような歌がある。
  
  人が死に焼いて埋めてそのうえに石を置きたるおそろしきかな 
                                        (同)
人が死んで火葬ののちに墓に入るというのはほぼ当たり前の手順であるが、確かにどこか奇妙なものであることに気づかせる一首である。この歌からも、作者が死に関した現代の人々の姿勢に、何らかの違和感を抱いていることが読みとれる。さらに、「墓地」を「売る」という行為は、人の死を利用した商売である。「墓地」を「切り売る」と言えばまるで反物か何かのように、死を軽く扱っているように思え、ともすれば不謹慎であると言われかねないことだ。そのうえ「さみどり」という人工的な美しさを演出してまで、まだ死んでもいない相手に「墓地」を買わせようとしている。死んでしまえば「墓地」の美しさなど関係ないという、当たり前のことは口に出さずに。そうやって「共同墓地を切り売る」という不自然な行為をあたかも自然のように行っていることのうしろめたさが、前述した「口語」で「恋を詠」うことの後ろめたさとよく似ているのだ。

しかし、墓地の売人は墓地を売らなければ生計が成り立たない。うしろめたくとも、生活をするためにはそれに折り合いをつけて売り続けていくしかないのだ。同じように、「恋を詠」うことが「いたみ」であるといいつつも野口がそれをやめないのは、「いたみ」に勝る力が何らかの強い力が彼女にはたらきかけているからなのだと思われてならない。そんな姿勢が現れている歌を、最後にもう一首引用したい。
  
  かかげればもしくは人を傷つけるかもしれぬ花束を抱いて   
                                       (同)


(文責:坪井晴子)
11月20日 歌会のおしらせ
藤森です。
寒さ対策も行き過ぎると拍子抜けしますね。
あたたかな部室での歌会告知をします。

とき  11月20日 18:30~
ところ 学生会館E714(参加人数によって変更する場合は改めて告知します)

詠草はお名前を添えて、当日18時までにpolkarin_dot●yahoo.co.jp(●→@)へお願いします。
みなさまの参加をお待ちしております。
11月6日 歌会のおしらせ
井上法子です。
今日もとてもさむいですね。
さむいけれど、歌会のおしらせです。

と き * 6日(金)18:30~
ところ * 学生会館E714(部室)

詠草は開始30分前までに、
downpour_sop★mail.goo.ne.jp(★→@)
までお送りくださいませ。

この時期に初司会です。がんばります。
井上でした。
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