早稲田短歌会の公式HPです。
月間予定:2009年9月
 9月
7日(月)歌会
中旬:石川啄木勉強会/読書会
22日(火)引き継ぎ会議


9月も夏季休業中ですので公式活動少なめです。
ご質問等ございましたら【wasedatanka●yahoo.co.jp】までお願いします。
文責・大塚
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一首評(No.6)
  耶蘇誕生会(タンジヨウエ)の宵に こぞり来る魔(モノ)の声。少くも猫はわが腓(コブラ)吸ふ (釈迢空  『倭をぐな以後』)

真夏に取り上げるべき歌ではなかろうと思うが、ともかくクリスマスの歌である。
もちろん釈迢空であるから、そうやすやすと「クリスマス」などとは詠まない。「耶蘇誕生会」という仰々しい字面の、さらに「誕生会」の部分に「タンジヨウエ」などと片仮名でルビを振ってしまう。ということは「ヤソ・タンジヨウエ」の、までが初句である。ゴテゴテと漢字で固めて、しかも字余り。何という重たい初句であろうか。
迢空の書くものには変な癖があって、外来語はふつう片仮名で書くところを、頑ななまでに平仮名で書く。ということは、迢空のなかには「耶蘇誕生会」のほかの選択肢として「くりすます」という語彙があった筈である。あるいは平仮名がそぐわないとしても「降誕祭」とか、クリスマスに相当する訳語はあるだろうに。

手許にある『短歌シリーズ 人と作品・15 釈迢空』では、晩年の迢空にはクリスマスを祝う習慣があり、街が混雑する前にささやかな外食をしていたそうで、その興奮冷めやらぬ気持ちが云々……という解説が付いているのだが、しかしこれは、どう考えてもクリスマスを楽しんでいる歌には見えない。
たとえ迢空にその習慣があったとしても、「耶蘇誕生会」という語彙には、キリストの誕生を祝う気持ちはこれっぽっちも見えてこない。「耶蘇」という大時代的な言い回しといい、わざとらしく「祭」とか「祝」とかいった語彙を避けたぎこちない「誕生会」といい、何をそんなに、というほど、この人はその行事から距離を置きたがっている。批判的な視座を持ち込みたがっているのが予想できる。

そして、迢空お得意の一字空けによる音読時の妙な韻律と合わせて、既にただならぬ雰囲気が漂うところで、ついに「モノ」がやって来てしまう。それらしき声がするというのである。しかも「こぞり来る」というのだから凄い。目に見えない「魔」的な奴らがワラワラと、なにかこう、安売りに群がる主婦たちのようにやって来るわけである。さらに、この「モノ」どもの正体というのもよくわからない。迢空ほど高位の人なら、そんじょそこらの悪い奴らなど一ひねりで追い払ってしまいそうな気もするが、ここではその声を聞いているだけである。
おめでたい筈のクリスマスを敢えておめでたくなさそうに言ってみせ、しかもよくわからない「魔」まで連れて来てしまったあたり、クリスマスを祝うというよりは、その裏側に暗い側面を見ようとしているといったほうが適切なようではある。観念的で大仰だが、怖い歌である。このあたりまでは。

ところが、せっかく「モノ」どもまでこぞり来てくれたのに、いきなりの句点、そして「少くも」と来る。ここまで相当な負荷をかけて「ただならぬ感じ」を盛り上げてきたのに、ひどい肩すかしである。自分でオカルト方面に話を進めておいて、そのくせ唐突に「少くも」などと言い訳を始めてしまう。

それで結局のところ何が起こっているのかと言えば、猫にふくらはぎのあたりをちゅうちゅうと吸われているのである。確かに異様な状況ではある。あるのだが、さんざっぱら魔物がやってくるだの何だのと盛り上げておいて、その根拠として「少なくともさ、確かにこの猫は俺のふくらはぎをちゅうちゅうしているじゃないか、そういうことなんだよ」という、この情けなさはどうだ。
「コブラ」などと学をひけらかして異様さを演出してみせても、「少くも」以降のこの何とも情けない情景は変わらない。老年にさしかかった釈迢空が、教科書の口絵に出てくるような風貌で、家猫にふくらはぎのあたりを吸われているのである。そしてきっとその妙に気持ちいい感覚に、思わず「あっ……」などと変に甘い声を上げたりしているのである。

同じ時期・同じテーマの作品に「基督の 真はだかにして血の肌(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より」というのもある。こちらのほうが、単純に「聖なるものである筈のクリスマスの異化」といった観点から見れば、よくできた歌である。生まれたての赤ん坊のキリストに、やがて訪れる磔のイメージをダブらせて、なんとも言えず不気味で、宗教的な含意に満ちている。笑っている主語がよくわからないあたりも、どこか狂気を匂わせて、背筋がゾッとする。
それに比べると、掲出歌の情けなさはいっそう際立ってくる。前半でかなり観念的に、力技を多用して頑張っているだけに、後半の言い訳めいた実景に至って、読者はガクッとなる。

しかし、この「ガクッ」という感じが掲出歌の最大の魅力でもある(こういうことは言った者勝ちみたいなところがあるが)。この観念的な言いぶりと間の抜けた実景とのあいだの落差が、一首まるごと観念的にまとめてしまった「基督の」の歌よりも、一首に思わぬ奥行きを与えている。
クリスマスについての作者あるいは主体の意見が表明されるだけでなく、同じ歌の中にそれを表明している「わたし」の実景までが含まれてしまう。そこに現れた情景はひどく間抜けで情けないのだけれど、その意図せずに混入してしまったような「わたし」の姿こそが、むしろ一首の読みの可能性を広げているのである。たとえそれが「猫にふくらはぎをちゅうちゅうされて悶えている釈迢空」であっても。

(文責・吉田隼人)
歌会のお知らせ
こんばんは。小田原です。
今日は晩ご飯に鶏そぼろそうめんを食べました。ワンプレート料理万歳。

次回歌会のお知らせです。

日時:8/10(月)
   18:30~

場所:部室にて(学館E714)

詠草は8/10の18:00までに以下のアドレスまでお願い致します。

purple-butterfly★ruri.waseda.jp(★→@)

遅刻、早退、提出のみ、も歓迎致します。その旨を添えてご連絡ください。

では、10日にお会いできるのを楽しみにしております。
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