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一首評(№2)
    新生児室に細く吹き込むガスあれば硝子の彼方現実である
                            (加藤治郎『環状線のモンスター』)


≪砂肝の散り散りばらばら皿にあり反吐がでる詩とさっき言ったな≫と、本人もご承知の通り、加藤治郎の第六歌集『環状線のモンスター』は、読者に嘔気を強いる。と言ったら言い過ぎだけど、読み進めていると何か咽喉に詰まっているような、気持ち悪さを覚える。

この一首なんてまさに、そう。私は人間の出産に立ち会ったことがないので分からないのだけれど、日本の産科病院には、生まれたばかりの赤ん坊をしばらく寝かせておく「新生児室」というものがある気がする。きっとそこには清潔な空気が送られている。それを加藤は「ガス」と言った。「新生児室」という個室に「ガス」。当然アウシュヴィッツがちらつく。新たな生命が誕生する場としての新生児室に、ユダヤ人虐殺の行われたアウシュヴィッツ強制収容所のガス室が重ねられる。そうだとしたら、誕生したばかりの生命が人為的に破壊されるという、生物としての撞着、どうしてくれる。

そして、「硝子の彼方現実である」。ここ、視点がわからん。新生児にとっての「硝子の彼方」=「新生児室」外なのか、部屋の外側にいる者から見た「硝子の彼方」=「新生児室」内なのかがわからない。新生児ではない加藤が作った歌なのだから外にいる「私」の視線だ、という「私」=作者の読み方は避けたい。すると、ここでは、ただただ硝子で隔てられた内外の融和が示されるばかりである。あるいは、神の視点から見た「硝子の彼方」かもしれない。そうだとしても、その神の視点を追うわれわれ読者は、ぼんやりと「新生児室」周辺を思い浮かべて終わってしまう。結局、何が「現実」なのかわからない、という不安だけが残る。

視覚は表現主体から切断されて機能し得るか。これは近代短歌からの命題であるように思う。加藤のこの一首は、その命題に新たな回答と新たな疑問を呈出しているのではないだろうか。下の句の不安感が上の句の気持ち悪さと相俟って、私に吐き気を催させたのであった。

ってな感じで一貫性のないままこの一首評を終わらせてもいいですか。

いいともーという声がする。

                                     文責・望月 裕二郎


環状線のモンスター―加藤治郎歌集 (角川短歌叢書)環状線のモンスター―加藤治郎歌集 (角川短歌叢書)
(2006/07)
加藤 治郎

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